そうだ!湯婆婆の湯屋であれもこれも落としてしまおう!
最近考えたこと①
千と千尋の神隠しというジブリの映画がある。
その中で、千尋が働く湯屋にドロッドロッの凄まじい臭いを放つ神様が現れる。
すったもんだの末その神様は本来の福々しい姿に戻ってすっきりした〜と大満足で帰っていく。
(説明は非常にザクッとしています。)
ふいにこのシーンを思い出して、私はなんというのか、
「あぁ、今の世の中こういう人たちで溢れ返っているのだなぁ」
と思った。
本来の姿のままでいたら福々しく清々しく、そして身軽であるはずなのに、私たちは面白くない画一的な教育やら世間の目やら一般常識なるもの(本来ならこちらが使いまくって振り回さなければならないはずなのに?)に振り回され気がつくと〜ねば!の呪縛にかかる。
そして自己否定とか人と比べるとか人を卑下して自分が上がっていられるという謎の優越感に浸ってみたり、無駄に頑張り過ぎるとか、とにかく自分を殺しにかかる。
それはやがて体調や精神に異常を来たし、過食になるとか鬱になるとか病を得るとか顕著に現れる。
たぶんそんな状態の私たちは知らず知らずのうちに千と千尋のあの映画に出てくるドブのような神様みたいに、凄まじくドロッドロで凄まじく腐敗臭を漂わせているのだと思う。
もしかしたらそんな人が多くて、だからおかしな事件が起こったり、鬱になるとか体調崩す人も多くなるのだと私は思う。
そして湯婆婆のいるあの湯屋へ行き一風呂浴びてみんなドロドロ(憑き物)を落としてすっきり出来れば良いのに!と私はわりと真面目に考える。
しかし、どうやら湯屋は映画の中の世界にしかないようなので、現実的には自分たちでどうにかしなければならない訳なのだが、これの最初の段階は、自己肯定することであり自尊心を育むことである。
よくあるやつね〜と思わないで欲しい。
これは非常に根気と労力を要する果てしない作業であり、時に泣き時に笑い時にのたうち回りという中々な作業である。
私が実際やってみて思ったことは、自分の核となる部分には中々到達出来ない。
ここか!と思ったら実はまだ奥にあって、そこに行き着くまでにまた膨大な気力と勇気を振り絞りドロドロを落として行くのだ。
しかし着実に着実に世界が変わっていくのを感じられる。
スピ系の話しではない。
具体的に言えば、ものの見方と受け取り方が変わり視野が広がるのだ。
ドロドロを落とすら作業はこれもスピ系の話しではなくて、非常に論理的に進められていく。
それこそ様々に気づきがあり、自分の心の美しさに震えることもあれば、自分小さいぜ!と現実を知ったりもする。
そしてやがて福々しい姿に戻ってすっきりする。(のだと思う)
大抵のことが良い意味でどうでもよくなる。
それは自分の中に余白が生まれるということであり、余白があるからこそ、穏やかさだったり優しさだったり愛を感じられるのだ。
それは確実に豊かなことであると私は感じる。
もちろん豊かさの定義は人それぞれなので、それはそれで良いのだと思う。
福々しい姿の人が増えれば世界はもっと確実にあたたかいものになるのだと思う。