☆.*My美学のすすめ☆.:*・★美意識を持ち世界を味わう:*・☆.。:*☆

感性こそ自分の最高のセンサーであり、最強の武器。その感性を磨くこと、曇らせないこと、大切に育むこと。感度を上げられるような?言葉を徒然なるままに…

もっと美しいものを!

もっと光を!

と言っていたという誰かのことをふいに思い出す。

なんか最近これに似たような渇望が私の中にあって、それは

もっと美しいものを!

なのである。

なんていうか、昨今美しくないもので世界は溢れ返っているなぁと思うことがしばしばある。
それはふと目に入ってくるニュースとか広告とかもそうだし、ふと目に飛び込んできたり耳に入ってくる言葉だったり、音だったりする。

最近気に入らないのが、SNSとか見てて目に飛び込んでくる広告。

インスタもメッセンジャーも広告がないのが好きだったのに広告で溢れ返っている。

特に!なんかよくわからない漫画?の広告には業を煮やしている。
一瞬だけど目に入ってくるその漫画の一コマ?一ページは大体暴力的だったり誰かが苦しんでたり、この社会の闇を描いているものが多いように思う。

げんなりする。

私はこういう暴力的なものとか下品なものを見るとリアルに具合が悪くなる。
まともにくらってしまうのだ。

こんな作品(とも呼びたくない)がこの世に溢れてるから暴力的なことや下品なことが溢れてしまうのだと思う。

たぶん殺人事件がなくならないのはミステリーとかサスペンスな本や映像が溢れてるからだと思う。

正直こんなの見て何が面白いのかと思ってしまう。

たぶんピースフルでラブリーな本や映像ばかりが溢れるようになると怖い事件は起きなくなるのじゃなかろうかと前々から私は思っている。

つまるところ、美しいものが圧倒的に足りない‼︎と思えて仕方がないのだ。

美しいものっていうのは何も芸術品とかキラキラした何かとか物質的なものに限らず、助け合いとか思いやりとか精神的なものも含む。

美しいものが足りないと人は殺伐とする。
人が殺伐とすれば社会も世界も殺伐としていく。
そう、世界は私たちが、あるいは私たちの意識が作っているからだ。

だから美しいものを求めなければならない。
美しいものを生みだし、美しいものを人にシェアする。

なんかそんなことがしたいなあと思う。

世界中どこへでも美しいものを求めて行く。
そしてそこで何らかの美しさを体感して、それを言葉なり写真なりで世界中にシェアするのだ。

日常の中に美しいものを見たり聞いたり触れるチャンスを持つこと。

これがとても大切なのではないかと思う。

だから私はもっと美しいものを!と追い求めたい。

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例えばそれは人かもしれないし、自然かもしれない、食べ物、風景、ものなのかもしれない。

 

いろんな美しいものを私は見て見たいと思う。

 

 

美しくない種族たちの話し。起業家編。

先日会った男性とその種族についてのあれこれ。

 

いわゆる起業家だという彼は会うなり私の仕事とかやってることについて根掘り葉掘り聞いて来た。
ポジティブに考えると興味を持ってくれているということになるのだけれど、内心なんだこいつと思う。

 

興味を持ってくれていないだろうと思う理由にその話しの聞き方がある。
なんだかインタビュアーのようにやたらと質問してくるのだ。
私はインタビューをされたい訳ではなく、普通の会話をしたかった。
そして逆に相手に質問するとわりと短く終わる。
具体的な話しをしてくれない。

 

私はあぁ、【会話】が成立しないなぁと感じる。

 

一通り話しをするとやけにイイね〜応援したいなぁ的なことを言う。

 

私は気持ち悪いなと思う。

 

こういうことを言う人は大抵応援などしない。

そして彼は言う。
「今度すごく面白いセミナーがあるから参加しないか」「絶対タメになるから!」と。

 

またこういう人種か‼︎と私は辟易する。

 

なんか、自分がスタッフをしているセミナーがあって〜、このセミナーはほんと良いよ〜タメになるよ〜などと誘ってくるセミナーなるものは、人を呼べばそれが成果?になり、その主催者?登壇者?に一目置かれたり?するようだ。

 

私は腐ってるぜ!と思う。

 

その上もうだいぶ席埋まってるから早く申し込んだ方がいい、なんなら今すぐに!的な態度を取り始める。

 

これは絶対に良いものなのだと言う割に、どこがどのようにと尋ねるとそれは直接聞いた方が良いから!などと言う。

 

これは詐欺師の手口だなと私は推測する。

 

実際に行けば良いものなのかもしれないけれど、私はこのようなやり口が大嫌いである。

 

私はこのようなやり口が大嫌いである。
(大切な部分なので繰り返した)

 

なんといいますか、具体的なことも感想も教えてはくれないのに良いものだから!と押し売ってくるこの厚かましさ。


その裏に純粋な気持ちが感じられない。

 

これは私の感覚に過ぎないけれど、私は自分がセミナーとか何かを受講して、それが良かった!こんな学びがあった!自分にこんな変化があった!ということがあるとそれを決壊したダム並みに人に伝えたいと思う。

(もちろんただ垂れ流すのではなく状況に応じてなのだけど…)

それがもし目の前にいる人にとって必要なのだと思えば私は話す。
たくさん話す。

だってもし私の得た知識や体験を話すことで目の前の誰かが元気になったり何かのきっかけになるならそんな嬉しいことはないと思うから。

 

知識とかもだけど私は体験とかその場の空気感とかそこで見聞きして自分がどんな風に感じたのかなど感覚的なことを伝えたいと思う。

 

そしてそれで十分だと思う。

 

もしそれで相手が自分に必要と思えば勝手に申し込んでるはず。
セミナーに行かずとも何かしら行動するのだと思う。

 

だからほったらかしにしとけば良い。

だって全部相手の自由なのだから!

 

先日投稿したなわとびの男の子にも通じるのかもしれないけれど、あのセミナー良いから申し込んで!などと言うのは価値観の押し付けに他ならない。

 

長くなって来たのだけれど、もう一つこの手の人種について腹に据えかねることがあるので書きたいと思う。

 

この手の輩は人の話しを聞いたあと、その人、その友達を自分に紹介して欲しいとか言いだす。

 

私は絶対紹介などするものか!と固く誓う。

 

いや、私も紹介してもらって仲良くなるとか逆に友達を紹介したりすることはある。
紹介され、されるのが嫌な訳ではない。
むしろそれによって拡がりや彩りがもたらされることも多々あるので良いシステム?だと思う。

 

しかし、この手の輩の言う紹介して!とは即ち自分のビジネスに利用したい的な思惑がちょろちょろと透けて見えるのだ。
透けて見える(気がする)ことにも浅はかさを感じてならない。

 

そんな輩のために私の大切な友人知人を紹介などしてたまるものか!と思う。

 

別におかしな商売をしているのではないことはわかる。

 

しかし私はこのようなやり口が大嫌いである。

 

私はこのようなやり口が…以下略。

 

なんと言うのか、稀薄だな…と私は虚しくなる。

 

そして美しくないなと感じる。

 

私は美しくないものには近づきたくないし、関わりたくないなと思う。

 

だから私はそっと離れてFBのお友達(になったばかりだと言うのに)を解除?した。

 

誤解しないで欲しいのだけれど、私は起業家が嫌いな訳ではないし、世の中のセミナーと呼ばれるものには素敵なものがあることも知っている。

 

私が美しくないなと思うのは、なんていうか、人のためだといってその実ただの利己的な自己中なだけの人種のことである。

 

そういう人種に会うととてもエネルギーが吸いとられてる気持ちになる。

 

そんなときはそっと離れるに限るのだ。 

 

 

 

 

そうだ!湯婆婆の湯屋であれもこれも落としてしまおう!

最近考えたこと①

千と千尋の神隠しというジブリの映画がある。
その中で、千尋が働く湯屋にドロッドロッの凄まじい臭いを放つ神様が現れる。
すったもんだの末その神様は本来の福々しい姿に戻ってすっきりした〜と大満足で帰っていく。
(説明は非常にザクッとしています。)

ふいにこのシーンを思い出して、私はなんというのか、
「あぁ、今の世の中こういう人たちで溢れ返っているのだなぁ」
と思った。

本来の姿のままでいたら福々しく清々しく、そして身軽であるはずなのに、私たちは面白くない画一的な教育やら世間の目やら一般常識なるもの(本来ならこちらが使いまくって振り回さなければならないはずなのに?)に振り回され気がつくと〜ねば!の呪縛にかかる。

そして自己否定とか人と比べるとか人を卑下して自分が上がっていられるという謎の優越感に浸ってみたり、無駄に頑張り過ぎるとか、とにかく自分を殺しにかかる。

それはやがて体調や精神に異常を来たし、過食になるとか鬱になるとか病を得るとか顕著に現れる。

たぶんそんな状態の私たちは知らず知らずのうちに千と千尋のあの映画に出てくるドブのような神様みたいに、凄まじくドロッドロで凄まじく腐敗臭を漂わせているのだと思う。

もしかしたらそんな人が多くて、だからおかしな事件が起こったり、鬱になるとか体調崩す人も多くなるのだと私は思う。

そして湯婆婆のいるあの湯屋へ行き一風呂浴びてみんなドロドロ(憑き物)を落としてすっきり出来れば良いのに!と私はわりと真面目に考える。

しかし、どうやら湯屋は映画の中の世界にしかないようなので、現実的には自分たちでどうにかしなければならない訳なのだが、これの最初の段階は、自己肯定することであり自尊心を育むことである。

よくあるやつね〜と思わないで欲しい。

これは非常に根気と労力を要する果てしない作業であり、時に泣き時に笑い時にのたうち回りという中々な作業である。

私が実際やってみて思ったことは、自分の核となる部分には中々到達出来ない。

ここか!と思ったら実はまだ奥にあって、そこに行き着くまでにまた膨大な気力と勇気を振り絞りドロドロを落として行くのだ。

しかし着実に着実に世界が変わっていくのを感じられる。

スピ系の話しではない。

具体的に言えば、ものの見方と受け取り方が変わり視野が広がるのだ。

ドロドロを落とすら作業はこれもスピ系の話しではなくて、非常に論理的に進められていく。

それこそ様々に気づきがあり、自分の心の美しさに震えることもあれば、自分小さいぜ!と現実を知ったりもする。

そしてやがて福々しい姿に戻ってすっきりする。(のだと思う)

大抵のことが良い意味でどうでもよくなる。

それは自分の中に余白が生まれるということであり、余白があるからこそ、穏やかさだったり優しさだったり愛を感じられるのだ。

それは確実に豊かなことであると私は感じる。

もちろん豊かさの定義は人それぞれなので、それはそれで良いのだと思う。

福々しい姿の人が増えれば世界はもっと確実にあたたかいものになるのだと思う。

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待つとは、相手に対する敬意と信頼である

なわとびを頑張って跳ぼうとしている男の子(推定4〜5歳)を見かける。
側にはお母さんが仁王立ちしており、目線は下げてはいけない、縄はこう持ちなさいなどと指導?している。

私はウゼーナーと正直思ってしまった。

それは例えば料理しながら、姑に次はこうしてああしてと指示され、ちゃんと火加減見てるの?などと逐一横で言い続けられるようなものではなかろうか?
良かれと思って言ってくれているのはわかるけれど、これぞまさに有り難迷惑というやつ。

そもそも子供には自ら学ぶ力も育む力も備わっている訳で、大人があれこれということは大抵役に立たなかったりする。
(そもそも聞いていなかったりもする)

たぶんあれこれ横で言い続けるより、お母さんがなわとびをぴょんぴょんと飛ぶ姿を見せてあげた方がよほどなわとびの習得は早い。

学校でもどこでも子供がいるところでは大人は時に、いや大抵過剰にあれこれと子供に言葉のシャワーを浴びせる。

そして子供から自分で考えるという時間もチャンスを奪う。

そのくせ急に自分で考えなさい!と矛盾したことを言う。

もちろん子供のためをと思ってのことだってことはわかる。

でも大人は【待つこと】を覚えた方が良いと思う。
待つことは相手を信頼している証でもあるから。

私はいわゆる障害を持つ子供たちの支援をしてみて、1番子供たちから学んだことはこの【待つ】ということだった。

これはやってみると実に素晴らしい効果を生む。(と思う)
たぶん子供に限らず大人にも効果はあると思う。

何よりなんとなく自分の中にも余裕が生まれる。

この忙しない世の中、待つってけっこう大変だと思うけど、やってみると良いよ!

オススメ!笑

夢も目標もはないけど見たい世界ならある!

おいてけぼりになる人がいない世界を見たいなと私は思うのです。

 

これはわりと昔から私の中にある思いなのですが、具体的に何するの?と言われるとうーん?な状態が続いています。

しかし最近うっすら見えてきたものがあり、やってみようかなぁ、どうしようかなぁ、怖いなぁ、失敗したら…いややっぱり!とかいややっぱり…とかグツグツ考え込みすぎてまさにチキンなスープが出来上がりそうです。

 

グツグツするのにもなんだか嫌気がさしてきてしまったので、よし!失敗してもいいからとにかく動いてみよう!と思っています。

そしてここに書くことで、(誰にも見られてないかもしれないけど)公開してみんなに見られてるんだからやらねば!とチキンなりの勇気を振り絞ろうとしているのかもしれません。

 

具体的なことはまた別途記載をと思うのですが、なんで【おいてけぼりのいない世界】が見たいのかと言えば、それはもちろん私が過去に【おいてけぼり】だった(と思っている)ことがあるからに他ありません。

 

なんというのか、私は物心ついた頃にはすでに孤独だったように思います。

家族もいて友達もいたはずだけど、私はいつもひとりぼっちでいるような気持ちでいっぱいでした。

 

それは後々になって考えてみると、HSPだったり発達障害の特性などにより、当時は知る由もなかったのですが、もういっぱいいっぱいであり私は心身共に声にならない悲鳴をあげていたようです。

 

もちろん自己肯定など出来るはずもなく、自尊心も芽生えることはなく、従って人に甘えたり頼ることは出来ず、いつも人の顔色を伺い、その場で何を言うのが正解なのかと考えてみたり、本音はぐっと飲み込んでという始末。

 

そりゃーどこかでガタがくるというものです。

 

私はまず学校に行かなくなりました。

いじめられてたとかいう訳じゃなく、もうとにかく行きたくない。

行く理由はひとつも見当たりませんでした。

小5から中3まで学校に行った日を数えた方が簡単に集計出来ると思います。

 

行かなくなってほっと安心するのと共に、親や先生や友達からはなんで来ないの?とか待ってるよ!とか反応が出ます。

私には学校には行かねばならない!とか行けない私は情け無い、ダメな存在なのだと日々言われまくっているような感じで罪悪感にまみれていました。

 

その後単身上京し、バレリーナを目指して右半身が動かなくなって挫折したり、慣れない事務職に心が砂漠化したり、ブラックな働き方で最終的に腹膜炎を起こし、2週間苦しみながら、孤独死するのでは⁉︎腐敗してその匂いでようやく気づいてもらえて、でも腐った私を見られれのは嫌だ‼︎などとまるで腐ったドブの中にいるかのような気持ちでした。

 

兎にも角にも、私はずっと自分はおいてけぼりになっている感がものすごーくあった訳です。

 

おいてけぼりになってるって、激烈に不安です。

まるで太平洋のど真ん中を手づくりのイカダに乗って浮かんでるみたいな。

まわりは真っ暗、いつサメに襲われるとも限らないという恐怖。

 

そう、寄る辺がないとは(そう感じられることは)非常に恐ろしく不安なことなのです。

 

不安の原因は人それぞれにあると思いますが、根本的な原因はつまるところ自分を信じられなかったり、好きになれないことなのだと思います。

 

おいてけぼりになってると感じでいる日々は世界は厳しく冷たいものでしたが、自分を好きになれると世界は一変します。

世界は優しく甘い美しいものになるのです。

 

これは何もスピリチュアルなお話しではなく、自分の見方や受け取り方が変わるということです。

小さなことでも美しさを感じられるようになります。

これはコロンブスもびっくりの大発見であり、自分に自信が持てるとか好きになれる、その瞬間を味わうことは極上の感動をもたらしてくれます。

 

さて、この世界にはおいてけぼりになっている人が実はたくさんいるのだと思います。

傍目には幸せそうでも実は…とか、

そして例えば障害者とかLGBTだとかある意味勝手に弱者だマイノリティだと決めつけられ、おいてけぼりを喰らわされている人たちもいます。

 

勝手にかわいそうとか、これが出来ないとかあれこれラベルを貼られたり人よりなぜか下に見られてしまうという訳です。

 

私はこれも昔から非常に違和感がありました。

だって接してみるとみんな普通の人たちだから。

もちろん配慮しなければならないところや苦手なことも彼らにはありますが、いわゆる健常者も人に助けてもらうことはままあることだと思うのです。

 

さあ、そこで私のいう【おいてけぼりのいない世界】ですが、これは【1人1人が対等な個人として在れる世界】という意味です。

 

助けが必要な人にはその人が障害を持っていても持ってなくても手を差し伸べるとか、自分と違う価値観を持っていたとしてそれを100パーセント理解は出来ずとも、そうなんだねと受け止めてみるとか…1人1人にそんな余裕があると良いなと思う訳です。

 

それは美意識を持つことと言っても良いでしょう。

 

そのためには人の意識を変えなければならないのだと思います。

変えるというより、溶け合うようなまぜこぜになるようなそんなイメージです。

 

鍵は美しいものを扱うことだと私の勘は告げています。(たぶん)

 

人々の意識が白黒くっきりわかれているのではなく、まぜこぜになって溶け合ったとき、私は私の見たい世界が見れるんじゃないかとそんな風に感じています。

 

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夢を持つことは実は必須でも必要でもない。

いつの頃からだろうか?

私には【夢】がなくなった。

こんな風になったら良いなぁ〜と思い浮かぶ映像はある。
仕事とかプライベートとか社会とか世界とかいろんなことで。
(ちなみに仕事とプライベートをわけるって違和感だなと思ってる。わけたくない。)

でもあなたの夢は?
と聞かれると
さぁ?
となる。笑笑

夢は持つもの。
夢はあった方が人生がキラキラする的な?風潮が世の中にはあるのだけれど、私は夢なんてなくて良いんじゃないかなって思うようになった。

私にはバレリーナになりたいという【夢】があった。
そのために上京もした。
でも怪我ばかりしてちっとも上手くいかなかった。
右半身が動かなくなり、これはもうどう足掻いても私はバレリーナにはなれないのだと絶望した。

それからだと思う。
夢を持たなくなったのは…

元気になってしばらくして、何か新しい夢や目標を持とう!と思った。

好奇心がちょろっとでも沸けばなんでもしてみたし、わりとどこにでも出かけてみた。
その度に学びも気づきも出会いもあり、それなりに収穫はあるものの、これが私の夢だ‼︎などと思えるものには出会えなかった。

努力が足りない!とか行動が足りない!とか自分を責めてみたり、ゆっくり見つければ良い、ナンクルナイサー✨と励ましてみたり色々してはみたものの、夢を探す旅は非常に難航してそのうち袋小路に入り、気がつけば「あれ?ワタシワダレり、ココハドコ?」状態になった。

夢のない自分に価値も希望も見出せず、SNSなんかでキラキラとしている(ように見える)人を見ては、素敵だな、いいな、なんで私はこんなんなんだ!と見事に負のスパイラルに飲み込まれ、さりとて人に甘えたり頼るのが壮絶苦手な私は弱いところを見せるのも何やら恐ろしく感じられて1人鬱々、悶々、もだもだしながらも時々綺麗なものを見たり美味しいごはんを食べたり素敵なお洋服に身を包むことでなんとかバランスを保って来た。(ような気がする。)


そう、今思えばあの頃の私は鬱だったのだろうなと思う。
気力もなく、人に会うのも嫌で、体調もずっと悪いし気分上がらないし、むくむし冷えるし太るし、笑
でも人に会えば無理やりにでもテンションを上げ笑ってた。
そして反動で一気に落ちる。
急に涙出たりとかさ…へへ。

それもこれも夢とか目標とか普通は〜とか社会人として〜とか諸々の得体の知れない【何か】に追われて(いるような気がして)何に向かってるのかもよくわからないままもがいて何か得たような気になったりしてた。

しかし、今ならわかるけど私は確実に【自分】を失っていたのだと思う。
自分にはなんの価値もないのだと(そう思ってしまった)気づいたときの衝撃といったら、モーゼが海を二つに割ったのを見た人と同じくらいの?衝撃で、もうダイオウイカも生息出来ないくらいの深海のそのまた深海にまで沈んで行ったような感じ。(伝わるかな(●´ω`●))

でも、あることをきっかけに私は【自分を好きになってあげたいなぁ】と思うようになり、ようやくようやく得体の知れない夢だのなんだのでなく、そこに確かに存在する【自分】にフォーカスし始めた。

それは長く思っていたより険しい苦しい道のりだった。。。涙、涙…

たくさん泣いた。涙
たくさんブレた。笑

そして、自分を好きだと思えた瞬間が訪れたとき、私はなんともいえない深い感動を覚えたのだ。
自尊心を持つとは、自己肯定出来るとはこんなにも暖かくて安心して安定するのかと…
生きてきてくれてありがとうって思った。

あのときの感覚はたぶん言葉には仕切れないと思う。


夢の話しから随分逸れたような気がするけど…

私は【夢】を持ったりそれを叶えることよりも、
【自分】でいられることの方がよっぽど大切なのだと思ったのだ。

別に夢に向かって頑張ってる人を否定したい訳じゃない。
そのために努力してる人を私はとても尊敬する。

私は私なりにぐるぐるぐるぐる歩いて来て、もしかすると人に比べたら随分亀のような歩みだったのかも知れないけれど、【自分】でいるという唯一無二の価値観と感覚を見つけた。(のかもしれない。)

なので強いて言えば、私の【夢】は【自分で在り続けること】なのだと思う。

そんな訳なので、具体的に何するの?と聞かれると、さぁ?って感じ。
いや、思い浮かぶイメージはあるんだけど言葉にするとありきたりになっちゃう気がする。

なんというのか、まだ受精したてで何がどうなってるのかよくわからないけど、確かにそこに命が存在してる。

そんな感じ⁉︎笑

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はじめまして♪

ご覧くださりありがとうございます。

yukaと申します。

私はこの2年近く、あることをきっかけに自分を好きになる旅?をして、30歳目前に自分を好きになるという感動体験をしました。

おいてけぼりになる人がいない世界を見たいなとゆるやかに思っています。

美しく綺麗なあらゆるものに心トキメキます。

HSP発達障害傾向強し!それも私であり武器であり個性なのだと思います。

雨の音や風に揺れる木の葉の音や鳥の囀りが私の世界には必須なようです。

晴れている日にお布団を干すのが大好き😘

種を蒔くように、誰かの何かのきっかけになるような人になりたいなと思います。

そして、それをそっと見守りたいなと…

感性を磨くこと、育むこと、曇らないこと、自分を大切に慈しむこと。

それがまわりまわって世のため人のためのなるのかなと思っています。

のんびりと、時に熱く…徒然なるままに思いを綴っていきたいなと思います。

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